ジェイ・ホワイトが海外インタビューにて、ニュージーランドでの成長、プロレスラーになりたいと思ったきっかけ、レスリングスクールに通うためにイギリスに引っ越したこと、NJPWと契約したこと、ROHについて、好きな試合、これまでに受けた最高のアドバイス等について語りました。
このインタビューについては、NJPW Worldのジェイ・ホワイトの過去のインタビューを併せて見ていただくとより楽しんでいただけるかと思います!
https://njpwworld.com/p/o_original_0008_80
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https://njpwworld.com/p/o_original_0008_83
翻訳元記事(※2021年12月に行われたインタビューです):
これまでの道のりについて
2012年にニュージーランドを出てから、これまでずっとプロレスを続けてきた。
トレーニングを始めたのは2013年の初めだったが、それ以来、俺の人生を大きく左右するようにことがたくさんあった。
この7〜8年の間多くのチャンスがあったがうまくやってきた。その間にたくさんのことを成し遂げることができたと思うね。
自身の成功が運によるものなのか、それとも技術によるものなのか
両方じゃないかな。
適切な時期に、適切な場所で、適切な人と出会う、という意味ではある程度の運が必要だと思う。でも、それが運かどうかは議論の分かれるところだ。自分でそういう環境に立たなければ分からない事だからね。
これは俺が若いレスラーにアドバイスしている事だが、そういう立場に自分を置かなければならないが、それを期待してはいけないとも伝えている。
お決まりの言葉だが、勝つにはまずはそこにいなければいけない。ショーに出るにしても出ないにしても、そこにはチャンスがあるかもしれない。正しい人に出会えるかもしれないのだから、正しい場所に自分の身を置かなければいけないんだ。
プロレスで得た教訓について
すべての教訓は人生に活きる。あらゆるチャンスに備えておかなきゃいけない。
特にプロレスや、目標の達成に向けて時間と努力を必要とするあらゆるものにおいてはね。とにかく準備しておく事が重要なんだ。
レッスルマニアの無料チケットを獲得したことについて
まだ若くて、自分を信じることができたからできたことかな。
この話は何度かしたことがあるけれど、実はラジオの懸賞でレッスルマニアへの航空券(飛行機代は全額負担)を獲得した事があったんだ。
当選したのは、学校を卒業したばかりの18歳のときだった。アトランタで開催されたレッスルマニア27だったんだけど、それがきっかけでプロレスに戻ってきた。
そして、幸運にもこれを勝ち取ったんだったらプロレスラーになってもいいんじゃないかと思ったんだ。そこからは運命のようなものを感じて自分が必要だと思うことをすべてやったよ。
でも、青写真もなくなんの保証もなかった。ニュージーランドにはプロレスの道場がなかったから、ニュージーランドを出たのは正解だったね。
プロレス・ジャーニーの始まり
アメリカではビザの関係で仕事ができなかったが、イギリスでは仕事ができたんだ。
インディ団体のことを全く知らなかった俺が考えたのは、チャンスがあるのはアメリカが1番で、イギリスは弟分だということ。そこから始まったんだ。
レッスルマニアのチケットを獲得した方法
学校を卒業してすぐにニュージーランド軍に入隊するつもりだったんだ。事前に訓練を受けていたんだが、入隊前に辞めてしまったせいで、自分が何をしているのか分からなくなってしまったんだ。
その後友人の父親が建設会社を経営していて、その縁で労働者として働くことになったんだ。
そんな時にディベートの優勝者は旅行代も込みで無料でレッスルマニアに行けるという話をラジオで聞いたんだ。すぐに電話したよ。
その内容はディベートだった。賛成か反対かを振り分けられ、その場でディベートに勝たなければならないというものだった。
お題は「chick-flicks(女性向け映画)は世界で最も優れている」というものだったっけ。俺は賛成の立場で相手は反対の立場だと言われた。
俺は、Video Easy(ニュージーランドのビデオレンタルショップ)のレシートの裏に付いてるクーポン券で、chick-flicksは2本で1本扱いで借りれることを話したんだ。
彼らは俺の売り込みを評価してくれて選考に残った。彼らは2週間にわたって何度もディベートを行った。2週間後の朝8時、俺の携帯電話に電話がかかってきた。それに出たら当選していることを伝えられたんだ。
プロレスのトレーニングをしていたことは親には内緒にしていた
正直なところ、当時の俺はあまりにも馬鹿で無知だった。ただ自分自身を信じ、それが実現するものだと信じていた。
何年も何もしてこなかったのにあのディベート大会で優勝してしまったのだからこれは運命なんだ、これが俺のやるべきことなんだ、ってね。
若くて愚かな信念だったが今思うと本当にこんなことはあり得ないと思うよ。
当時両親にはプロレスをやるとは言っていなかった。ただイギリスに行って一から始めたんだ。レスリングスクールと連絡を取って、3人で学生寮に泊まり、最終的には3カ月分の前払いをして、どこかに泊まりながらスタートを切ったんだ。
最初に母に話したのはデビュー直前で、いつかは誰かに話さなければならないと思っていたからね。
ただ、トレーニングをしていることを誰かに話して、すべてが台無しになってしまうのは嫌だったんだ。
リング上での自然体でいる事について
俺はすぐに覚えることができた。
最初のトレーニングの時に今までどの団体にも所属したことがないと言ったけど、それを信じてもらえなかった。あまり自分を誇張するつもりはないが、テレビでレスラーがロープを走るのを見て、自分にもできると思ったんだ。
スポーツの経験や協調性があったおかげですぐに物事を覚える事ができたよ。
新日本との契約が決まった経緯
フィン・バロール(プリンス・デヴィット)と出会ったのは、それから1年ほど経ってからだった。2013年1月にプロレス始めてから、2014年2月に彼が俺たちの団体にやってきたんだ。
彼の発言からの推測だけど、彼は俺のプロレスはそこまで見れなかったが、俺が他のすべての仕事をこなしていた事に感銘を受けたようだ。
俺は親指を骨折してギプスをしたままリングを作っていたんだが、フィンは俺がそれを望んでいることを知っていたんだ。
それで、彼は新日本のシステムの話をしてくれて、私のことを新日本に紹介してくれて、上役の人たちに話をしてくれた。そのおかげで俺は2015年1月1日に日本に来ることができたんだ。
言葉の壁について
最初に道場に入ったときは、英語を全く話せないSHOとYOHと一緒だったんだ。
彼らは英語を話せず、俺も日本語を話せなかったから最初は手振りでのコミュニケーションで厄介だったよ。道場に着いたばかりの頃は道場の人たちと全くコミュニケーションが取れず、それっぽいアイテムを使ったり携帯電話を使って翻訳したりしたよ。
幸いなことに、英語を知っている先輩が何人かいたし、たまにブロウクン・イングリッシュが通じる相手もいた。
SHOとYOHが英語を学び、俺が日本語を学んだおかげでコミュニケーションをとることができるようになったんだ。
初めて東京ドームに行ったときのこと
初めて東京ドームに行ったのは、2015年に現地で仕事をする前にショーを見させてもらったときだ。
ショーを初めて見た当時は新日本のことをあまり知らなかったし、あまり調べてもいなかった。
最初の瞬間を見ただけで想像以上に息を呑んでしまったよ。当時何の期待もなかったんだが、畏敬の念を抱いたよ。
俺にとっての大きな違いはあの観客を経験したことだね。
俺は主にWWEの観客に慣れていたから現地に行って日本の観客を経験することで、その違いや彼らの気持ちを感じることができたんだ。
よりスリムになったことについて
時間をかけて、よりスリムになろうと努力してきた。海外遠征のときにサイズを大きくしようとしたこともあった。正直なところ、自分がどのように見えているのか正確に把握していない時もあったよ。
そろそろ体を絞るべきだと気づいたのは、2018年の後半だったかな。体重が軽い方が快適だし、トレーニングにも適していると思ったんだ。
クリストファー・ダニエルズとの試合について
人は彼のことを「The Fallen Angel(堕ちた天使)」と呼ぶが、最近は「The Fallen, Forgotten, Failing Angel(堕ちて、忘れられ、失敗した天使)」と呼ぶことにしている。
というのも、俺は彼に何かを閃き、再び名前を世に知らしめる機会を与えているんだ。
彼のような男には1つの機会が必要で、それさえあれば彼のキャリアは再び動き出すことができるんだ。
夢の対戦相手について
俺はほとんどの相手と戦った事があるように思う。NJPWストロングには特に狙っている相手はいないが、みんなが俺を狙っているからね。
だからこそ、俺はNJPWストロングに挑戦状を出したんだが、もしかしたら別の誰かが現れるかもしれないしAEWやIMPACTの誰かが現れるかもしれない。
「Forbidden door(禁じられた扉)」はあるだろうが、俺自身の扉は開け放っているよ。